東京地方裁判所 昭和41年(行ウ)60号 判決 1968年3月27日
原告
凸版印刷株式会社
右代表者
山田三郎太
右訴訟代理人
和田良一
外二名
被告
中央労働委員会
右代表者
石井照久
右指定代理人
吾妻光俊
外三名
被告補助参加人
全印総連凸版印刷板橋工場労働組合
右代表者
山田勉
右訴訟代理人
寺村恒郎
外三名
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事 実<省略>
理由
一原告主張の請求原因一ないし三の事実(編注、都労委及び中労委命令の内容及びその手続)は当事者間に争がない。
二また別紙の被告委員会の命令書(写)の理由第1記載の事実は次に記載する点を除いてすべて当事者間に争がない。
(一) <証拠>によれば、命令理由第1、1、(2)の事実及び同2(6)の事実を認めることができ(但し、右1(2)の事実中、補助参加人組合の被告委員会の結審当時の組合員の数の点については、これを認めるに足りる証拠がないので、この点を除く、また、右の2(6)事実中一二月一四日とあるのは一二月一三日とするのが正確である)、右認定を左右するに足りる証拠はない。
(二) 命令理由第1、5、(1)の事実中、都労委の斡旋の過程において会社が補助参加人組合に対してその結成の時期を明らかにすることを求めたとの事実、又はこれに対し会社の主張する事実の存否は、以下の認定事実並びにそれに基づく判断に照らし、なんら本件の結論を左右しないと解するので、この点の判断は省略する。
三そして、<証拠>によれば、山田勉ほか七〇余名は、凸版労組が全印総連を脱退することに反対したのみで、その脱退に際して同人らが凸版労組を脱退する旨の明示の意思表示をしたことはないけれども、凸版労組が全印総連を脱退する旨の決議をした昭和三八年一二月一三日当日、山田勉らも別に団結大会と称する会合を開き、従来どおり全印総連加盟の組合として活動しようという申合わせをし、組合名を全印総連凸版印刷板橋工場労働組合と定めて(凸版労組は全印総連に加盟していた当時も全印総連なる名称を冠していなかつた)、山田勉を執行委員長に選んだほか、他の役員をも新たに選出し、組合規約は新たに起草したわけではないが、従前の凸版労組の組合規約に、職場委員会、代議員会等に関する規定を削除する等かなりの修正を加えて、これを同人らの属する労働組合の規約としたこと、なお全印総連には従来凸版労組が加盟していたのであつて、その組合員が個人加盟をしていたのではなく、凸版労組の脱退後も山田勉らが個人で加盟しているのではないことを認めることができる。
四右二及び三の事実からすれば、山田勉ら七〇余名は凸版労組からの脱退及び新組合の結成につき明示の意思表示をしなかろうと、また同人らか右脱退、結成の事実を否定するような言動をとろうとも、実質的には凸版労組から脱退して新たに補助参加人組合を結成したものであつて、相変らず凸版労組に止まつて単なる分派活動を行つているにすぎないものではないことは極めて明白である。
五しかるに補助参加人組合は、昭和三八年一二月一四日、凸版労組に対しては、「貴労組の全印総連脱退に際し、多数の組合員が全印総連にとどまつて、全印総連凸版印刷板橋工場労働組合として、運営していくことを決定した」旨、会社に対しては、「此の度、全印総連凸版板橋労働組合より多数の組合員が脱退したので、役員を改選した。当労組には多数の組合員が残つているので、従来会社が行つてきた全従業員からのチェック、オフは中止するように申入れる」旨それぞれ通告し、補助参加人組合が新たに結成されたものであることを承認せずかえつて山田勉ら七〇余名以外の者が凸版労組から脱退したもののように強弁しているのである。そして補助参加人組合は今日に至るまで終始、全印総連から脱退する以前の凸版労組との同一性を有するものと主張していることは<証拠>に照らし明らかである。
六ところ社会現象として見た場合の労働組合の分裂現象につき、法的にこれを見た場合、(イ)従来の労働組合の解散と新たな複数の労働組合の結成、(ロ)従来の労働組合からの集団的脱退と脱退者による新組合の結成以外に、(ハ)従来の労働組合の分裂という別個の形態が存し、(ハ)の場合には(イ)の場合とも(ロ)の場合とも異なる法律効果を生ずると解する見解があるが、前記二及び三の事実からすると、右見解に従つても補助参加人組合は右(ロ)の場合として新たに結成されたものと認めるほかなく、(ハ)の場合にあたるとは到底認められないばかりでなく、(ハ)の場合でも、分裂してできた複数の労働組合の全部が従前の組合と同一性を有すると解し難いことは勿論であり、その一が従前の組合と同一性を有すると解することもできないから、いずれにしても、補助参加人組合が全印総連脱退前の凸版労組との同一性を主張することは全く根拠のないことであり、上部団体への加盟を継続する点等においてその純粋性を主張する意味でこれを主張するのは格別、法人又は権利能力なき社団としての法的主体性を主張する意味で同一性を主張するのは不誠意であるとのそしりを免れない。けだし、補助参加人組合が新たに結成された組合であることが明らかであるにも拘らず、従前の凸版労組との同一性を主張して譲らない限りは、凸版労組との間ばかりでなく会社との間においても、例えば、従前の労働協約の効力、組合事務所、掲示板の使用、いわゆるチェック、オフ等の問題に関し無用の紛議を生ずる虞があるからである。
七してみれば、補助参加人組合が凸版労組との同一性を主張しながら会社に対し団体交渉を求めるのは真に誠意ある団体交渉の申入とは認め難いのであるが、しかし、さればといつて直ちに会社がこれを拒否しうると解するのも亦早計であつて、なおこの点について考えてみなければならない。補助参加人組合が従前の凸版労組との同一性を主張しこれを固執する限り、種々の無用の紛議を生ずるおそれのあることは前叙のとおりであり、特に、<証拠>によると会社と凸版労組との間には昭和三八年四月二六日成立した有効期間を一年とする労働協約が存したことが認められ、そして山田勉は同人に対する証人尋問調書である前記乙第五九号証中で右労働協約の効力には変更がないと主張しているから、これらの点について紛議を生ずるおそれがなくはないといわなければならない。(チェックオフの問題については、凸版労組は昭和三八年一二月二七日付で会社に対し、同月二六日山田勉ら七三名の者を除名したので同人らに関してはチェックオフを行わないように通知したことが<証拠>によつて認められるのでチェックオフの問題で紛議を生ずることはまずあるまいと察せられる。)しかし、それらの問題は団体交渉によつて解決することが不可能であると解すべき事情を認めるに足りる証拠はなく、むしろ一般的にはそれらの問題は団体交渉によつて解決するのが最も妥当であると解せられるのであり、従つて、会社としては補助参加人組合の前示のような態度にも拘らず、その申入れた団体交渉に応ずるのが至当であつて、団体交渉中に更に交渉に応じ難い事情が発生すれば格別、当初から団体交渉に応じないのは組合の態度にも増して不誠実であるといわなければならない。殊に、補助参加人組合から団交申入のあつた昭和三八年一二月一四日当時、会社は、補助参加人組合結成の経過の詳細は承知していなかつたとしても、少くとも凸版労組が全印総連を脱退すべきか否かについては数ケ月前から、賛成派と反対派とが互にビラの配布等を行つて激しく抗争していた事実を承知していたことは、<証拠>によつてこれを窺うに十分であり、そして前記の昭和三八年一二月一四日付の組合の会社に対する通告書には前記のとおり「此の度、全印総連凸版板橋労働組合より多数の組合員が脱退したので、役員を改選した。当労組には多数の組合員が残つているので、云々」と記載されているのであるから、会社としては凸版労組が事実上分裂して凸版労組とは別に補助参加人組合が労働組合として存在するに至つたことは少くとも承知したものと解さなければならないのに、<証拠>によると、補助参加人組合は組合結成後数次に亘つて書面で団体交渉の申入を行つたけれども、会社は常に「全印総連凸版印刷板橋工場労働組合なる組合は承知致しておりません」との回答をして団体交渉を拒否しているが認められるから、会社の態度は不誠実の一語に尽き、会社主張の理由は到底団交拒否の正当理由となるとは解せられない。
八なお、会社主張の請求原因四、(ニ)(イ)ないし(ハ)の点については、これまでの認定並びに判断に照して、(イ)会社の昭和四〇年三月六日付質問書の送付は必ずしも挑発的行為とはいい難く、(ロ)被告委員会がいうが如き照会によつて直ちに疑議が解消するとは考えられず、また、(ハ)補助参加人組合の昭和三八年一二月一四日付凸版労組及び会社に対する通告書の内容は前記のとおりであつて、右通告書のみから山田勉らが凸版労組を脱退し新組合を結成したと認めることは困難であつて、なるほどこれらの点において被告委員会の判断はいささか妥当を欠く点なしとしないが、前記判断のとおり会社が補助参加人組合の団交申入を拒否し得る理由はないから、会社の右団交拒否は不当労働行為にあたること明らかであつて、被告委員会の命令は相当である。
九よつて原告の本訴請求は失当であるから、これを棄却し、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法第七条民事訴訟法第八九条第九四条を適用して、主文のとおり判決する。(西山 要 今村三郎 山口 忍)
【別紙】
命 令 書
理由
第一 当委員会の認定した事実
1、当事者
(1) 再審査申立人凸版印刷株式会社(以下「会社」という。)は、肩書地に本社を置き、大阪に支社、東京、埼玉、大阪、九州、仙台等に工場を有し、従業員約六、五〇〇名を雇用して印刷全般にわたる業務を営む株式会社である。
(2) 再審査被申立人全印総連凸版印刷板橋工場労働組合は、会社板橋工場の従業員約二、二〇〇名のうち、五〇名(本件結審時)をもつて組織されている労働組合である。
2、凸版印刷板橋工場労働組合が全国印刷出版産業労働組合連合会を脱退するまでの経緯
(1) 会社板橋工場には、昭和二〇年一二月四日に結成された凸版印刷板橋工場労働組合(以下「凸版労組」という。)があり、同労組は、全国印刷出版産業労働組合連合会(以下「全印総連」という。)に加盟していた。
(2) かねてから、凸版労組内部には、全印総連批判の動きがあり、昭和三八年七月の第一〇回全印総連全国大会で、同労組は、新運動方針に対する修正案を提出し、さらに、二ケ月後の再開大会にも提出したが、結局、同労組の修正提案は容れられなかつた。この間、凸版労組では、それまでの執行委員長山田勉がリコールされて、同年一〇月五日丹野庄次郎が執行委員長に選任された。
(3) このようなことから、凸版労組内部で、全印総連脱退の動きが活発化し、三八年一二月上旬前後には、脱退賛成派と反対派がそれぞれ外部団体の応援をえて、ビラの配布、デモ等により宣伝活動が行なわれていた。
(4) 凸版労組執行部は、脱退の方針の下に、一二月四日、全印総連脱退について、職場委員会に提案、同月一一日の大会を経て、一二日に全員投票を行なつた結果、圧倒的多数をもつて、全印総連からの脱退が決定されたことが、一三日の職場委員会で確認された。
(5) 凸版労組は、会社に対し、同労組が全印総連からの脱退を一二月一三日決定した旨を通告した。
(6) しかしながら、山田勉ら七〇名の組合員は、全印総連脱退に反対し、引き続き全印総連の組合員として活動することとし、一二月一四日、全印総連凸版印刷板橋工場労働組合(以下「組合」という。)として、組合規約を確定し、執行部を選出し、山田勉が委員長となつた。
3、組合の団体交渉申入れと会社の態度
(1) 全印総連、同東京地連及び組合の三者は連名で、昭和三八年一二月一四日、文書により凸版労組及び会社に対しそれぞれ次のように通告した。
① 凸版労組に対しては、「貴労組の全印総連脱退に際し、多数の組合員が全印総連にとどまつて、全印総連凸版板橋工場労組組合として、運営していくことを決定した。」と通告し、同月一六日には、七九名の組合員名簿を届けている。
② 会社に対しては、「此の度、全印総連板橋労働組合より多数の組合員が脱退したので、役員を改選した。当労組には多数の組合員が残つているので、従来会社が行なつてきた全従業員からのチェック・オフは中止するように申入れる。」との通告書のほか、同時にチェック・オフ打切りについての団体交渉申入書に組合三役四名の名簿を添えて提出した。
(2) 組合は、さらに同月一七日にも団体交渉を申入れたが、会社は、これらの申入れに応じなかつた。
組合は、同月一八日、抗議の文書を会社幹部に手渡すよう奥村労務課員に依頼したが、同人は、これを一旦受け取つた後、山田に返戻している。
(3) 一二月二〇日、組合は、全印総連、同東京地連と三者連名による団体交渉申入書を、内容証明郵便で会社に送付したところ、会社は、これに応じなかつた。組合は、同月二三日再び抗議書を岡林労務課員に手渡したが、同人も又これを山田に返戻している。なお、上記団体交渉申入れに対して、会社は、同月二三日付で、全印総連凸版印刷板橋工場労働組合なる組合を承知しない旨の文書を、内容証明郵便で、山田勉個人あてに送付している。
(4) 会社は、一二月二三日付文書で凸版労組に対し、組合との関係について見解を求めた。同労組は、同じく二三日付文書で、凸版労組は、全印総連を脱退したが、組織上も労働協約上も従前と変化はないこと、山田勉をはじめとする一部少数の組合員の分派活動を確認しているので、同労組としては、近く除名処分をとる予定であるが、二三日現在同人らは凸版労組の組合員であつて、当組合の統制下にあること、全印総連凸版印刷板橋工場労働組合執行委員長山田勉名義の会社あて団体交渉の申入れは、理解に苦しむところであること等の趣旨の見解を回答した。
しかして、凸版労組執行部は、一二月一六日組合から渡された組合員名簿(前記3の(1)の①)により調査して七三名の者を確認したうえ、労働組合の統制を乱すということで、除名を決め、既に一二月一八日頃の職場委員会で除名を決定していた。
(5) 組合は、一二月二五日、時間中の組合活動、組合事務所、掲示板設置等の問題について、会社に団体交渉を申入れるとともに、凸版労組にも共闘の申入れをしたが、会社も凸版労組もこれに応じなかつた。このことについて組合は、抗議書を宮西労務課員に手渡したが、前回同様返戻されている。
(6) 凸版労組は、一二月二七日、山田勉ら七三名を一二月二六日付で除名した旨会社に通知している。
4、昭和三九年中における組合の団体交渉の申入れと会社の態度
昭和三九年に入つて、組合は、会社に対し、一月一一日の内容証明郵便による団体交渉の申入れを始め、同年中に九回にわたつて、いずれも内容証明郵便で団体交渉の申入れを行なつた。交渉事項は、その時期により内容を異にしていたが、会社は、「全印総連凸版印刷板橋工場労働組合なる組合を承知しない」旨の文書を内容証明郵便で山田勉個人あてに送付するのみで、五回目以後は全く回答せず、団体交渉には終始応じていない。
5、昭和四〇年一月の東京都地方労働委員会のあつせんとその後の経緯
(1) 昭和四〇年一月二七日、組合は、東京都地方労働委員会(以上「地委委」という。)に団体交渉の促進等についてあつせん申請を行ない、同地労委であつせんが行なわれたが、会社は、組合結成の時期を明らかにすることを組合に求め、結局、双方の主張が対立したまゝ二月一七日あつせんは打ち切られた。
(2) 昭和四〇年三月三日、組合は、労働条件改善と志田幸四郎の配転の問題で団体交渉を申入れ、同時に役員名簿及び組合規約を送付した。会社は、これに対し、同月六日、組合の存否について疑義があるとして、組合結成の経緯、時期の点について釈明を求める旨の文書を山田勉個人あてに発した。
(3) 三月一一日、上記の会社の照会に対し回答するために、組合の山田勉委員長が会社大井総務部長に面会を申入れたが拒絶された。同月一三日、会社は、前記照会に対して文書回答をするよう督促した。
(4) 三月一六日、組合は、会社に対し、六日付の照会については、団体交渉の席で回答するので一八日に団体交渉をするように申入れるとともに、地労委に、「昭和四〇年三月三日申入れた団体交渉を直ちに開始すること及び陳謝文の交付と掲示」を求めて不当労働行為の救済申立てを行なつた。
(5) 同地労委は、昭和四〇年一一月二日「会社は、昭和四〇年三月三日に組合が申入れた団体交渉に応じなければならない。」との命令を発した。
(6) 組合は一一月六日、会社に対し、組合事務所、掲示板の設置、時間内の組合活動の保障を要求し、地労委命令に従つて団体交渉を行なうよう文書で申入れるとともに、同一内容の文書を内容証明郵便で送付したが、会社は、「東京都地方労働委員会の命令には不服であり、再審査申立てをする。従つて、この命令による団体交渉は行なわない。」旨を山田勉個人あてに回答した。組合は、さらに同月二〇日付の内容証明郵便で、前記の要求に対する文書回答を要求したが、会社は、同月二六日付の内容証明郵便で、会社の態度は変らない旨回答している。
6、会社の上記態度は、現在に至るまで変つていない。 <以下略>